新訳フロム『愛するということ』を通して独身部長のことを想う

「ずっと、モテたいと思っていました。」

部長は、自身の男子校生活を振り返って、そう述懐した。

 

我が部の部長は、40代独身。

色白で中性的で素朴なお顔立ちで、中肉中背。

都内有名大学法学部卒で、すこぶる頭が良く、話し方も論理的。

企画立案力も素晴らしく、その仕事ぶりは「神の手による業」と評されている。

趣味にピアノも嗜んでおられ、腕前も相当なものらしい。

部長でおられるので、当然年収は8桁を超える。

 

しかし、モテないというのだ。

 

部長はこう続ける。

「なぜ私がモテないか、その謎に迫るべく考証しました。」

なるほど、当然である。部長は見た目、学歴、職種、年収、性格を総合的に勘案すれば、すこぶる得点は高いのだ。

この資本主義社会においては、恋愛も等価交換主義の傾向が強い。

可愛いアイドルはトップクラスのユーチューバーと付き合い、女子アナは野球選手と結婚。

部長の「商品価値」としては、Sランクといっていいだろう。清楚な若い女性と付き合っても差し支えないスペックだ。

どうやら、部長は自身のその正当な自負から、むしろ環境に問題があるという仮説をたてたようだ。

 

曰く、高校生時代は、名門男子校で将棋ばかりしていたそうで彼女はいなかった。

都内有名大学に入学すると、「女性」という存在に純粋な驚きを感じた。

テレビや雑誌の「女性」や担任おばちゃん教師しか、日常で「女性」を目にしていなかったし、同級生の「女性」を近くで見たのは小学校が最後だった。

 

私は、そこで部長に非常に共感し、赤べこの如く激しく首を縦に振った。

「わかります、私も女子高だったので。男子ってこんなに声太いんだってびっくりしちゃって。慣れませんでした。」

「そうでしょう、私も驚きました。いろんな種類の女性がいるのだな、と。その種類の多さにも驚きましたし、何が普通・平均的な女性なのか、つかめなかったのです。」

 

部長は社会人になった後、女性何人かとお付き合いすることができた。

しかし、何かが違った、という。

「何が違ったのでしょう?」

「私は、納得がいかなくなってしまったのです。」

突如として、部長はそこで口をつぐんだ。

私たちの職場は急遽編成された新設のプロジェクトチームで、部屋は急ごしらえ感たっぷりの、4人がようやく入る元倉庫。

その小部屋では、誰かが話さないと、耳の機能を疑いたくなるほどの静寂が簡単に訪れる。

 

「何が、納得いかないのでしょうか。」

「私は、ずっとモテたいと思っていました。」

「はい」

「モテたいというのは変で」

「いえ、当然の欲求ですよね。私だってモテたいです。」

「なぜですか?」

「いや、それはだって、モテたら本当に好きな人と付き合える確率が高いし、ちやほやされたら嬉しいじゃないですか。」

「私、フロムの『愛するということ』を再読いたしまして」

私は衝撃を覚えた。

実は、フロム『愛するということの』の新訳が出て非常に読みやすいと評判だったため、私もつい一週間前に、早速拝読し、いたく感銘を受けたところだったのである。

 

そこからは話は早かった。にわかに元倉庫の鬱屈とした雰囲気が一気に華やいだ。

「部長、分かりました。つまり、愛されるより愛したい、そのような女性とお付き合いしたいんですね。」

「そのとおりなんです!」

部長はこう続ける。

「付き合った女性は自己承認欲求が強く、愛されるための努力を怠らない女性ばかりで、私のことを本当に愛しているのかが分からなかった。私に愛される自分に酔っているように見えまして。私と愛の価値感が異なる場合が多かった。そして何より、納得いかなかったのは自身に対してです。私はもっと相手の女性を知るべきなのかもしれない、と謙虚になるべきかと。」

「なるほど…ところで、あ、あの、先ほどのモテない原因というのは…」

「私がモテない理由は、男子校育ちゆえ、技術に頼りすぎたからなのです。」

「(…私も思い当たる節がありすぎる…)」

「モテるデートや、モテる言葉遣いなどのハウツーにこだわりすぎた。当然そのような薄っぺらいハウツーで引っかかる女性は、愛されることに執着するような価値観の女性で、私とは性格が合わない。だから、私は真にモテないのです。」

私は、高スペック中年男子による「結婚できないのは環境のせい説」が展開されるに違いないと思い込んでしまった自分を恥じた。

 

部長は、最後、こう総括した。

「私は、愛するということに謙虚でありたいのですね。」

 

私は思った。

多分、部長が結婚する日は遠いのだろうな、と。

浦沢直樹「MONSTER」を読んでみたらとんでもないモンスターに出会った話※ネタバレ注意

とんでもない漫画を読んでしまった。

 

浦沢直樹「MONSTER」である。

 

 

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読む者へあまりに多くの問題提起をしてくる作品である。

細かくありていに言えば、

権力闘争、東西冷戦、医療倫理、家族愛、人間愛、トラウマなど…

多くのテーマを内包しているといえるのだが…

 

とにかくここまで心を揺さぶって来るのは、

タイトルにある『モンスター』というテーマだ。

 

 

 

児童虐待は悪」という概念がない世界

目黒区の児童虐待死など、痛ましい事件が報じられる度、「なぜ親でありながら可愛い我が子を…?」と、眉間にしわを寄せ首をかしげてしまう。

それは、おそらく「自分なら絶対にそうしない」「容疑者は自分とは全く違う人間」と、疑問もなく思える人間の意見である。

わたしも当然そうだった。可愛い我が子を「しつけ」という名目でここまで痛めつけるのか。わたしと違う人間だからできることだ。

 

しかし、本作を読んで、改めてまた気づかされたのだ。

果たしてわたしは、児童虐待加害者と「違う人間」なのか?と。

 

 

 

ディーターの里親であるハルトマンさんは、孤児たちを完璧な兵士に育てあげる旧東ドイツプロジェクトの実験場である511キンダーハイムの地区担当官だった。

 

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ディーターはいつもハルトマンに殴られ、ハルトマンはこう言う。

「今の世の中は、悪いことでいっぱいだ…だからお前は強くならなくちゃいけないんだ。」

「世界は…真っ暗だ…明日は…真っ黒だ…」

「お前も少しでもヨハンに近づかないと…」

 

彼にとっては、殴ることは虐待ではなく正義であり旧東ドイツ政府公認の教育なのである。

まるで雄大被告が「しつけのつもりだった」と供述したように。

 

「そんなの間違いだ、ありえない」と思うかもしれない。

でもそれは今の平和な日本で裕福に愛情を受けて育ったわたしだから思うであって、

文化も環境も成育歴も違う誰かはそうは思わない。

旧東ドイツ政府下で小児精神学を学んでいれば、

わたしだってハルトマンさんのように殴って蹴って教育を施していたかもしれない。

 

児童虐待防止法だって実はつい最近できた法律なのだ。

現に、少し前のアニメ、クレヨンしんちゃんを見ていると、みさえはしんちゃんを「げんこつ」で殴っているし、ドラえもんでもジャイアンの母は殴ってジャイアンをしつけているのだ。ほんの少し前の話だ。

少しぐらい殴ることは「しつけ」としてありえることだったのだ。

 

わたしは現在、7歳の愛息がいて、愛する夫がいて、本当に幸せな日々を送っている。

しかし、状況が違えばどうだろうか?

わたしは、夜泣きで毎日2時間しか寝れない日が1週間続いた、ある夜を思い出す。

確かに本当に一瞬だけ(しかしすぐ理性と愛のもとかき消したが)思ったのだ。

「つらい…逃げたい……いっそこの子がいなければ…」

 

それは、きっとだれの心の中にもある「モンスター」なのだ。

時代が違えば…環境が違えば…誰かの言葉に傷ついていれば…

あとは少しのトリガーで、内なる「モンスター」は覚醒してしまう。

 

 

本作の絶対悪はヨハンなのか?

諸悪の根源とは

ヨハンがサイコキラーとして大活躍する本作なので、当然「ヨハン」対「テンマ」という善悪の対立構造で読み進めるのだが、最後まで読んだ方ならわかるとおり、この物語には「生まれながらの絶対悪(=誰から見ても悪いといえる諸悪の根源)」がいるようでいない、というのが最大の恐怖ポイントである。

誰かが何かのトリガーで、内なるモンスターを飼いならせず、自身が「モンスター」となっているのだ。

まさに作中に出てくる絵本「なまえのないかいぶつ」で、中から獣に食い尽くされるように。

 

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トリガーは、ロベルトなどにとっては「ヨハン」であり、ヨハンにとっては「フランツボナパルト」や「母親」であり、母親やフランツボナパルトにとっては「旧東ドイツの政府」なのである。

 

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フランツは絶対悪ではない

やっかいなのが「旧東ドイツの政府」という点である。

個人でなく「政府」となると、より諸悪の根源は特定できない。

政府だって世界情勢という大きな概念からの影響を受けて、「モンスター」となっているのだ。

ではそんな世界を作ったのは?「神」?

「神」が悪いのか?なぜ神はそんなことを?

きっとこれがあらゆる宗教の発端となるのだが、それはまた次の機会で。

 

その上で、フランツボナパルタが語る「人間はなんにでもなれるんだよ」という言葉は、本作におけるキーセンテンスのうちの一つであろう。

しかも、本作の舞台は第二次世界大戦において選民思想のもとホロコーストを実施した「ドイツ」である。

愚かなユダヤ人は我々優秀なアーリア人種と違うから排除するという選民思想が「正しい」とされていたドイツでは、大戦後の大規模な飢餓や敗戦による国民アイデンティティの喪失、そして「ヒトラー」という最大のトリガーにより、多くの国民がモンスターとなっていた。

(ちなみに本作に出てくる名前はヒトラーの親族の名が多い気がする。エヴァは、ヒトラーの妻の名だし、ヨハンやアンナもヒトラーの親族の名だ。)

 

これからわたしは報道を見て、犯人と自分は違う人間だから「犯人の心や態度が理解できない」と一蹴することはできなくなったと思う。

人間はなんにでもなれるのだ、美しい宝石にでも、モンスターにでも。

  

 

 

自分を信じるか、神(悪魔)を信じるか

 本作第一話で引用されている一節である。

そしてわたしは、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。 わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。 その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」

ヨハネの黙示録」第13章より

 

わたしが小学生の頃はよく聖書とか神話とかを聞いて「ありえないじゃん、だれが信じるの」と少しバカにしている節があった。

当時はオウム真理教が世間を騒がしており、サリン事件後はわたしにとって「宗教団体は血迷った人が信じる愚かな集団」と思ってしまった節もある。

わたしはいまだに無神論者で無宗教だが、しかし子どもの頃に感じていた「でもなぜ人は宗教を信じるのか」という疑問が依然あり、たびたび折に触れて大きな宗教のひとつであるキリスト教などの本を読んでいた。

中でも特にわかりやすかったのが、『ふしぎなキリスト教』である。

 

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対談形式でちょお面白い

 

 

キリスト教徒は科学に反することを信じているのか? という疑問に関して

「日本では科学を信じない福音派をバカにする傾向がありますが、私に言わせれば福音派の考え方は、多数派のキリスト教徒とある意味そっくりです。どうしてかというと、福音派は多数派の裏返しに、「聖書を尊重し、聖書に矛盾しない限りで科学の結論は正しい」ことにした。こうすれば、科学も宗教も、矛盾なく信じることができます。」

 p123より

なるほど。一応矛盾を自覚し、整理した上で信じているようだ。

しかし、日本人は違うという。

日本人は戦時中、天皇が現人神で神の子孫だと信じていた。当時のアメリカ軍の将校が日本人捕虜に聞いた。

「日本人は進化論を知らないんだろ?」

ところが日本人捕虜はこう答えた。

「進化論は知っているし、正しいと信じている。」

なぜ日本人は人間は猿の子孫であると信じながら、同じ人間である天皇の先祖は猿ではなく神である、ということも同時に信じられるのか。矛盾している、とアメリカ軍の将校は頭を抱えた。

 

橋爪先生の指摘によると、

進化論は理科の時間に習い、現人神について習うのは歴史の時間。学校の教えは正しいから、とそれぞれを丸暗記する。それが日本人なのだ。矛盾律以前の問題なのだ。

今の日本人がどうなのかはわからないが、確かに個人的にはうなずける部分はある。

確かに、外国の方と比べると日本人は自分の意見を言わず、相手に合わせることが多いなと日ごろ感じる。もちろんそれが功を奏することもあると思っている。なにも日本の良いところをつぶすことはない。

ただ、日本は詰め込み型教育で、思考停止型と言われるのに対し、ヨーロッパ諸国では思考型教育が進んでおり、主体的に課題に取り組む子どもが多いということを聞いたことがある。日本の子どもは受け身で主体性がない、ということらしい。

文科省の最近の改革(プログラミングなどの思考型授業を導入する予定だ)も、そういった声を受けてだろう。

 

本作でも同様のことを感じる。主体的に考え行動するか、受動的に言いなりになるかである。

おそらく私たちは本作を読み進めていくと「バカな!信じられない!矛盾している!よく考えるんだ!」という場面を多く目にする。

しかし、もしかしたら本作の時代背景のように本当に惨憺たる状況下であれば、一番楽なことは、ヨハンのような存在を崇拝し、思考停止して、妄信することなのかもしれない、とも思う。

でも、テンマは違う。

常に自問をし、考えぬいた結論に関しては自分を信じる。

テンマがディーターへ言った言葉は、多くの読者の心を打っただろう。

「自分で決めろ!!君自身で決めるんだ!!」

 

そして、浦沢直樹の描き方が本当に「あー本当に凄い、上手い」と思う点の一つは、だれにも感情移入しうるという点である。

ある時はケンゾーであったり、ディーターであったり、アンナであったり、エヴァであったり…とにかくどの登場人物にも人間味があり(緻密な感情の描き方である)、引き込まれる。

その人間模様の中だからこそ、よりヨハンの冷徹無血のサイコパスっぷりが映えるのだ。

そして、やはり感情移入していく中で、一歩間違うとわたしもヨハンの崇拝者になるのではないかという「危うさ」を感じながらも、主人公のテンマという強い存在に希望を与えられながら読み進むことができる。

やはりテンマが主人公として据えられていなければ、この漫画はただただ胸糞悪いだけの作品となり、ここまでの支持は得られなかっただろうと思う。

映画『ダークナイト』でも思ったことだが、こういう絶望的なヒールが出てくるときは、やはり人間味もある希望的存在が主人公になってもらわないと!と個人的には思ってしまう。

 

そういえば、ダークナイトも最後悪役ジョーカーが「俺とお前は同じ人間だ」と言ったシーンがあった。

善と悪の境目はあるのか?悪人とは?善人とは?

本作にでてくる絵本「へいわのかみさま」と同じテーマだ。

へいわのかみさまは鏡にうつった自分が悪魔であることを受け入れられなかった。

わたしたちは常に自分の中の悪魔を飼いならさなくてはならない。

映画や漫画で取り扱われる普及的テーマの一つであるな、とつくづく思う。

 

君の名は

レッテル?定義?アイデンティティ

「なまえのないかいぶつ」という絵本がでてくる。

また、子を守るべくカモフラージュのため同じ格好をさせられている双子がいる。

双子には本当の名前がない。

僕は君 君は僕、とヨハンがいう。

双子は自分の体験なのか相手の体験なのかもお互いわからなくなる。

「名前がない双子」ということが何もかも境目をあいまいにしていく。

 

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これはヨハンなのかアンナなのか

 

どうやら名前というのは、思っているより影響力の大きいものらしい。

 

夢枕漠「陰陽師」の中でこんな一節がある。

「”呪”とはなんであろう?」

すると晴明は、庭に咲く花を指さして答える。

 

「あそこに花が咲いているであろう。あれに人が”藤”と名をつけて、みながそう呼ぶようになる。すると、それは”藤””の花になるのだ。それが最も身近な呪だ。」

 

わたしも振り返ってみると名前というものに振り回される人生だったな、と思う。

 

父は異様に「名字」にこだわる人であった。

跡継ぎ、という意味ではない。

「墓守」という役割を背負わせるツールとしての「名字」を非常に重んじていたのだ。

わたしは長女であったので、

「必ずや婿養子を連れてこい」ということは幼少期から命令されていた。

実際、夫はわたしの父からのプロポーズ(!)を受け、

わたしの名字に変えてくれた。

しかし、次第にいろんなことが上手くいかなくなった。

男の人が名字を変えるということは、やはり相応に大変なことだったようだ。

職場、銀行、パスポート、免許証の申請、家族への説明、周りへの説明(おそらくこれが一番面倒だっただろう)など。

結婚した女性でも感じたことがあると思う。

「自分の名字を変えるってこんなに大変なことだな」と。

男性であればより大変なのかもしれない。

夫の言葉の端には「せっかく俺が名字を変えてやったのに」という態度がにじむようになった。

私も名字を変えてもらった負い目を感じ、対等に話をすることができなくなっていた。

結局はそれが直接の原因とはならなかったにしても、遠因となっていろんなことが重なり、離婚となった。

 

ある友達は言っていた。

実は自分の名前は「名字+名前」で、ある美しいルールが保たれており(特定につながるので詳細は伏せるが)、結婚して姓を変えるとそのルールが崩れてしまう。

それは耐え難いことではあるが、しかし夫の姓へ変えるのが一般的であるし、好きな人の姓になりたいという思いもあり、自らの希望で夫の姓を選んだ。

しかし結婚後、何かうまくいかないのだという。

上手く言えないが、名前を書くたびに、自分が美しくなくなるような感覚(これがふさわしい表現なのかはわからないが)に陥るのだと。

性同一性障害に自分はなったことはないが、なんとなく近い感覚なような気がすると。

自分が自分でなくなるような…

 

名は呪い、というが、本当なのかもしれない。

名前は負のレッテルとなったり、その人のアイデンティティとなったり、望む目標であったり、縛ってしまうものであったり…

 

名前がない、ということがこの双子に与えた影響は、本作を読んだとおりだ。

また、名前を与える、ということが示すことも、本作を読んだとおりだ。

その上で「MONSTER」のラストを読むと感慨深い。

双子の本当の名前が明かされないまま、ヨハンは消えてしまった。

 

ヨハンは「イエス・キリスト」なのか

 

ラストについて特筆すべきは、

アンナの「あたしはあなたを許す」というシーンだ。

まさにキリスト教の赦しのごとく、アンナはヨハンという罪を赦したのだ。

それに対し、ヨハンはこう答える。

「だめだよ…取り戻せないものがある…もう後戻りはできない…」

 

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あなたには見える 終わりの風景が

 

 

…ヨハンは「死ぬこと」でしか許されないのだ。

キリストの十字架上の死によって全人類の罪が許されたように。

そこで、ふと思い出す。

そういえば、ヨハンは「裁き」を繰り返していた。

まるで神のように。

 

「殺してほしい」と願う人を殺すことは罪なのか?

昔からある高瀬舟的命題である。

その高瀬舟的命題に対する本作のアンサーは、

「すべての命は平等」「死にたがっている人なんかいない」

ということなのかもしれない。

そのアンサーに従って、テンマはまたも天才的手術によりヨハンの命を救う。

まさに「キリストの復活」である。

そして、双子の本当の名前が明かされないまま、ヨハンは消えてしまった。

母親に会いにいった?それともまたも殺戮を繰り返すのか?

果たしてその意味は?

 

キリストの復活は、何を意味しているのかは諸説あると思うが、

一般的には人類に希望を与えたとされている。

ヨハンの復活が、希望的な意味であることをわたしは祈る。